どうして。
どうして、こんなことになってしまったのだろう?
手首を捕えられたり、拘束されているわけでは決してない。
首筋にかかる荒い息は、恋人だった女のものではなく、青年…というよりも、
まだ少年のもの。
なのに、少年が腰を押し進めると、くみしかれた男の口からは、かすれた甘い声がもれる。
それを自身のものだとはとうてい認めることができなくて、正二(しょうじ)
は固く目をつぶった。
「ねぇ…」
まだ幼さを残した声が正二を呼ぶ。
「名前、呼んで…オレの」
頬に少年の汗が滑り落ちるのをぼんやりとした頭で感じながら、正二は口を開く。
先ほど、耳元で囁かれた名前を。
「カズ…」
否定的な意識とは裏腹に、正二の腕が伸びて少年の首に回される。
結果的に自分が引き寄せた少年の唇が、暗闇の中で触れる。
それは洩れる吐息や触れる肌の熱とは不似合な程、冷たくて。
泣きたい位、優しかった。
「はぁー…」
正二はその日、何度目になるかわからないため息を吐き出した。
高層ビルの窓から、猫多駅に付属してそびえたつホテルをにらみつける。
昨夜、あのホテルの大宴会場でそれは盛大な結婚式が行われたのだ。
じっと見ていると、気分がどんどんと滅入ってくる。
正二は気をまぎらわすかのように、机の上につまれた書類に目を通した。
「……駄目だな…こりゃ…」
仕事に頭を向けても駄目出しの書類の山に、正二は再び溜息をついた。
「松枝課長…お茶が入りました」
傍らで女子社員が乱暴な手つきで湯のみを置こうとするのに、慌てて机の上の書類を片付ける。
壁にかけられた時計を見ると、きっかり三時だった。
こういうところはお役所仕事と言われても、公務員は変わらない。
ありがたく湯のみを口に運ぼうとすると、先ほどの女子社員が盆を机に載せたまま、立ち尽くしている。
「どうした?」
正二は心配そうな顔をしている彼女に声をかける。
正二と目があうと、慌てたように彼女は、盆を置いて立ち去った。
「あ!こら待ち……」
呼びとめかけて溜息をつく。
「最き……」
最近の若いものは…と、ぼやきかけた正二の口に苦笑いが浮かぶ。
四十路を前にしてすっかり老成してしまったかのようだ。
これでは部下だった恋人にふられるのも、仕方がないことなのだろう。
そして、思い出す。
先の女子社員は元恋人と、仲が良かった事を。
「やれやれ…」
この後、どんな噂話が展開されるのだろうか。
正二は思う。
思い悩んでいるのは、そんなことではない。
元恋人への未練は、いつのまにか薄れていた。
昨夜。
結婚式の晩に、自分の名前を呼んでくれと言った「カズ」としか知らない少年の。
…きれいな笑顔が目蓋から離れない。
「大丈夫?おじさん」
北口の飲み屋で行われた2次会で、正二は勧められるままにグラスをあけた。
結婚した二人が正二の部下であったこと。
更に新婦が恋人であったことが、社内の暗黙の了解だったせいもあるだろう。
恋人を寝取られた男に対する同情と嘲笑。
そんなものが入り混じった酌を、正二には断ることができなかった。
かくして管理職についていながら、いまいち酒だけは強くならなかった正二は、足元も覚つかず、路地で崩折れていたのだった。
喫茶店の裏口にあたる路地には、コーヒーの香りが充満し、割と清潔に保たれていた。
正二は罪悪感を抱きつつも、道に胃の中身をぶちまけていた。
体をささえきれずに、がらがらとゴミ箱に突っ込む。
派手な音をたてて転がった正二を助け起こしながら、声をかけてきたのが、カズだった。
無意識に男の方を見遣ると、店のロゴの入ったエプロンをつけている。
そこでここが、喫茶「fade」の裏口にあたることに気がついた。
エプロンを凝視したまま座りこんでいる正二に、カズは手を差し出した。
「立てる?」
目の前に出された手につかまりながら正二は答えた。
「あぁ…大丈…」
けれど、言葉は途中で飲みこまれた。
それまでの吐き気が消えたわけではないのだ。
崩れ落ちるようにして、正二はカズの腕の中に、吐くもののない胃の中身をあげた。
「わ、大丈夫じゃないじゃん」
よろける正二の体をささえながら、カズがおかしそうに笑った。
声に誘われるようにして、正二は初めてカズの顔を見た。
「…………」
ぽかん、と口が開く。
「おじさん?」
やけに整った顔立ちの少年が、不思議そうに首を傾げる。
その瞳には、まだ心配そうな色が濃く残っている。
きれいだな、とぼんやり考えながら、正二は何度もまばたきを繰り返す。
だんだんカズの姿が捉えにくくなっていくのだ。
「ちょ、ちょっとっ」
慌てたようなカズの声が追いかけてくる中、正二は意識を手放した。
猫多市にある猫多学園は、そこそこのレベルを保った男子校である。
中高一貫教育の高等部学舎、1年F組の窓際で二人の少年が、机をはさんでにらみあっていた。
「また?」
細く整った眉を寄せて梅田和男(うめだ・かずお)は、目の前のクラスメートを見た。
端正なくせに目つきだけは凶悪な顔で睨まれると、安井は及び腰になった。
「や、あの…ちょっと、さ。北岡の子が……」
すべてを語る前に、安井の言葉は大げさな和男の溜息でさえぎられた。
川をはさんで学園の向かいにある共学校の名前を聞いた途端、和男はすべてをさとった。
「あー、もういいよ。いっそオレがそこで雇ってもらうか?」
投げやりな口調とは裏腹に、和男は楽しそうな笑みを浮かべた。
「う…そ、それは…」
女好きの安井は、女にかける金が並ではない。
親からの小遣いではとうてい足りず、バイトにせいを出しているというわけだ。
そのバイトとデートが重なることもしょっちゅうで、中学から腐れ縁の和男にたよりっぱなしだ。
だけど、それは収入源をたたれることである。
安井はどうしてもバイトを取られるわけにはいかないのだ。
「嘘だよ。でも、マジであそこは居心地いいけどな」
前髪をかきあげながらウインクまでよこす和男に、安井は涙目になりながら手をあわせた。
今回は嘘で済んだけれども、本気になった和男は手がつけられない。
この3年弱で、安井は嫌と言うほど思い知らされてきたのだ。
「fade…かぁ……そういえば……」
机に頬杖をつきながら、和男が呟く。
「何?なんかいい出会いでも?きれいなOLさんとかいるよなー」
やはり女のことしか考えていない安井に、グーでパンチを送る。
大げさに痛がる安井を冷たい目で見下ろしながら、和男は握った手をゆっくり開く。
まだ。お世辞にも大きいとは言えない手のひらに、握りこめてしまう手首。
自分よりも遥かに年上なのに、腕の中で泣きながら震えていた体。
自分の名前をかすれる吐息の合間に呼ぶ、優しい声。
そして、切なげにつむがれる自分の知らない女の名前。
和男は手のひらに力をこめる。
血がとまりそうな程、きつく。
「オレは…」
彼の名前も知らないのに。
あれ以来、社内の噂はだんだん大人しくなっていった。
「課長、飯でも食っていきませんか?」
就業のベルと同時に、隣室から同期入社でいまだ平社員の塚本が声をかける。
「あ……よせよ」
同じ年の塚本に課長呼ばわりされるのは、少し居心地が悪い。
「ん?都合、悪いか?」
「いや…そうじゃなくて…」
口ごもる正二に、塚本はおもしろうそうに背中を叩いた。
「ほら行くぞ、松枝!」
「……あぁ」
ひきずられるようにして、正二は社を後にした。
人ごみを器用に抜ける塚本の後を追う。
「どこに行くんだ」
塚本は自信満々の足取りで駅コンコースを抜け、北口メインストリートを進んで行く。
正二は落ちつかなげに、あたりを見回した。
先日、散々失態をさらしてから近寄らないようにしていた。
見咎めるものがいないとはいえ、居心地が悪い。
「喫茶店だよ。これが、静かで落ちつくんだって」
言いながら塚本が指さした先に、まさにその『fade』が姿を現した。
正二は何かの呪いに違いない、と塚本から見えないように溜息をはいた。
その反面、淡い期待を抱いている自分がいた。
再会するのが怖くて、こちらに足を向けることはなかったから。
塚本が慣れた手つきで重い木製のドアを押す。
「何やってんだ?早く来いよ」
正二は、ごくりと唾を飲みこんだ。
この扉の向こうに『カズ』がいるのだ。
「あぁ…今、行く」
扉をくぐると、そこは表とは別世界だった。
控えめな音量でジャズが流れ、店内にはコーヒーの香りが充満している。
塚本について、奥の席に通されると正二はそっとカウンターを盗み見た。
ひげのマスターの他には、一人の女性が冷やと手拭の用意をしている。
(いない…?)
ほっとしたのと、がっかりしたので正二は詰めていた息を吐き出した。
「松枝?」
「ん、あ?な、なんだ?」
顔をあげると、塚本が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「まーだあの女のこと、忘れられねーのか?女は一人じゃないぜ?」
タイミングよく差し出された手拭を受取ながら塚本が言う。
更に言い募ろうとするのをさえぎって、正二は首を振った。
「彼女のことは…もう、いいんだ」
そのまま黙りこんでしまった正二をじっとみていた塚本は、傍らで待っていてくれた店員に、二人分のオーダーをした。
程なく並べられた食事は、簡単なものの割に、おいしかった。
正二は食事の間中、無言だったことに罪悪感を抱きながら、顔を上げた。
「つかも…」
「スミマセンっ!」
静かな店内に、少年の声が響いた。
はっとしたように正二が顔を向けると、カズと同じ年頃の少年がエプロンをかけながら、マスターに頭を下げていた。
人違い?
落胆したような表情を浮かべた正二に、塚本が声をかけた。
「ここに知り合いでもいるのか?」
「知り合い…というか…」
正二は口篭もる。
知り合いと言うにはカズの事を知らないし、逆に知りすぎているとも、いう。
あきらめきれずに見つめつづけていると、少年と目があった。
いぶかしげな顔をして少年が冷やのポットを手に、テーブルに近づいてきた。
「お冷はいかがですか?」
塚本はすでに空になったグラスを差し出し、正二は食い入るように少年を見つめた。
少年は落ちつかないらしく、1歩さがって口を開く。
「あの…僕が…なにか?」
「いや…その…ここに……」
「ここに?」
「あ、だからその…君のほかに男の子の店員は…その…」
少年は宙をにらんで、しばらく考えこんでいるようだった。
「あ!」
少年が思い出したように、軽く手を叩く。
「梅田、でしょうか?」
「うめ…だ?…その、カズ……、と」
呟くようにつむがれる正二の言葉に、少年は得心したようにうなずいた。
「正規のバイトではないんです。その、僕の代わりにたまに入ってもらっている臨時、なんです」
「そっか…」
正二の少し沈んだ調子に、塚本が少年を手招きした。
中腰になった少年に塚本が耳打ちする。
「はい、わかりました」
にっこり笑うと一礼して少年は、テーブルから離れた。
それにすら気がつかない風で、正二は目の前に置かれたカップを凝視していた。
和男は猫多の町を疾走していた。
部屋でごろごろしていたところに、携帯が鳴ったのだ。
安井からの電話の第一声は「助けて」だった。
何事かと姿勢を正してみれば、緊急でバイトを代わってくれということだった。
「ふざけるな」
吐き捨てるように言うと、和男は回線を切った。
そろそろ10時になる。
電話にでないままでいると、メールの着信音が鳴った。
『松枝正二、っておじさん知ってる?おまえを探してるみたいだ』
読み終わると同時に、和男は夜の町に飛び出した。
片手に握りしめたままの携帯の画面を、覗きこみながら町を走る。
「まつ…えだ………しょうじ……」
口の中で転がすように、名前を呼ぶ。
10分間、走りつづけて和男はfadeの裏口に回った。
従業員専用口をそっと開けて、店内にいるはずの安井を呼ぶ。
「おい、さっきのメールって…」
息を切らしながら話す和男に、珍しいもののように安井が見た。
「すっげ…」
「は?」
「おまえが息切らしてんの、初めて見た」
ちゃかすように言いながら、安井が店の奥を指差した。
「あの人なんだけど…知ってるか?」
安井の影に隠れるようにしながら、和男が奥を覗きこむ。
ぼんやりとカップを眺めている正二の姿を視界に納めると、和男は安井を押しのけた。
「こっ、こら…いてーって…」
壁にぶちあてられた腕をさすりながら安井が文句を言う。
「もう行ってしまったよ」
おだやかな声が降ってきて、安井はマスターを見た。
「僕って、友達思いですよねー」
「そうだね。彼には世話になってるしね」
「松枝さん」
頭上からかけられた声に、正二は顔をあげた。
「……どうして?」
泣きそうに顔をゆがめて、正二は和男と塚本を交互に見た。
目が合ったのを見計らって、塚本にウインクされてカウンターを省みる。
マスターと二人で手を振っている姿に正二は困ったように、和男を見た。
和男は外気で冷たくなった手を正二の手に重ねた。
周りが気になるらしい正二を引き寄せると、塚本に小さく頭を下げる。
「お借りします」
手を引かれたままの不安定な格好で、であった路地へ連れて行かれる。
「君…は」
正二はやっとのことで口を開いた。
言いかけた言葉をふさぐように唇を重ねると、和男は逃げられないように正二を抱きしめた。
「もう…置いていかないでください」
あの日。
初めて夜を共にした日。
和男は正二の名前もしらないまま、ぬくもりだけが残るベットに取り残された。
あの時から、和男の時間は止まったままだ。
「あれは…一夜限りの、こと…だろう?」
苦しげにつむぎ出される正二の言葉に和男は首を振る。
「嘘。そんなこと、思っていないでしょう?」
和男の言葉に、正二はただ、首を横に振ることしかできない。
正二の頬に唇が触れる。
「嘘だよ…なら、なんで泣いてるの?」
和男のささやきに目を閉じる。
「カズ…」
正二の手がゆっくりと和男の背中にまわる。
抱き合ったまま和男が、小さく囁く。
「もっと呼んで、オレの名前」
「カズ」
「正二さん、ダイスキ…」
後日談。
「ねーねー、正二さん。」
「ん?」
「これって運命だよねぇ」
和男の青い発言に苦笑いを浮かべながら、正二は首を縦に降った。
「オレね、思ってたんだ」
「何を?」
「あなたの指を噛み千切って、目印にしておけばよかった…、って」
「…………」
「昼間の正二さんは、今と全然違うから」
正二の背中に指をすべらせながら、和男がささやく。
ぴくり、と眉を寄せてから正二は和男を見た。
「仕事中にこんなことはしないだろう?」
「してたら怒るよ」
そして、二人は青い毛布にくるまって。
何度も何度も、キスをした。
END
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