黒猫学園シリーズ連載 No.4
* 
順 風 満 帆 *
written by 沢田有実



 どうして。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう?
 手首を捕えられたり、拘束されているわけでは決してない。
 首筋にかかる荒い息は、恋人だった女のものではなく、青年…というよりも、
まだ少年のもの。
 なのに、少年が腰を押し進めると、くみしかれた男の口からは、かすれた甘い声がもれる。
 それを自身のものだとはとうてい認めることができなくて、正二(しょうじ)
は固く目をつぶった。
「ねぇ…」
 まだ幼さを残した声が正二を呼ぶ。
「名前、呼んで…オレの」
 頬に少年の汗が滑り落ちるのをぼんやりとした頭で感じながら、正二は口を開く。
 先ほど、耳元で囁かれた名前を。
「カズ…」
 否定的な意識とは裏腹に、正二の腕が伸びて少年の首に回される。
 結果的に自分が引き寄せた少年の唇が、暗闇の中で触れる。
 それは洩れる吐息や触れる肌の熱とは不似合な程、冷たくて。

 泣きたい位、優しかった。

「はぁー…」
 正二はその日、何度目になるかわからないため息を吐き出した。
 高層ビルの窓から、猫多駅に付属してそびえたつホテルをにらみつける。
 昨夜、あのホテルの大宴会場でそれは盛大な結婚式が行われたのだ。
 じっと見ていると、気分がどんどんと滅入ってくる。
 正二は気をまぎらわすかのように、机の上につまれた書類に目を通した。
「……駄目だな…こりゃ…」
 仕事に頭を向けても駄目出しの書類の山に、正二は再び溜息をついた。
「松枝課長…お茶が入りました」
 傍らで女子社員が乱暴な手つきで湯のみを置こうとするのに、慌てて机の上の書類を片付ける。
 壁にかけられた時計を見ると、きっかり三時だった。
 こういうところはお役所仕事と言われても、公務員は変わらない。
 ありがたく湯のみを口に運ぼうとすると、先ほどの女子社員が盆を机に載せたまま、立ち尽くしている。
「どうした?」
 正二は心配そうな顔をしている彼女に声をかける。
 正二と目があうと、慌てたように彼女は、盆を置いて立ち去った。
「あ!こら待ち……」
 呼びとめかけて溜息をつく。
「最き……」
 最近の若いものは…と、ぼやきかけた正二の口に苦笑いが浮かぶ。
 四十路を前にしてすっかり老成してしまったかのようだ。
 これでは部下だった恋人にふられるのも、仕方がないことなのだろう。
 そして、思い出す。
 先の女子社員は元恋人と、仲が良かった事を。
「やれやれ…」
 この後、どんな噂話が展開されるのだろうか。
 正二は思う。
 思い悩んでいるのは、そんなことではない。
 元恋人への未練は、いつのまにか薄れていた。
 昨夜。
 結婚式の晩に、自分の名前を呼んでくれと言った「カズ」としか知らない少年の。
 …きれいな笑顔が目蓋から離れない。

「大丈夫?おじさん」
 北口の飲み屋で行われた2次会で、正二は勧められるままにグラスをあけた。
 結婚した二人が正二の部下であったこと。
 更に新婦が恋人であったことが、社内の暗黙の了解だったせいもあるだろう。
 恋人を寝取られた男に対する同情と嘲笑。
 そんなものが入り混じった酌を、正二には断ることができなかった。
 かくして管理職についていながら、いまいち酒だけは強くならなかった正二は、足元も覚つかず、路地で崩折れていたのだった。
 喫茶店の裏口にあたる路地には、コーヒーの香りが充満し、割と清潔に保たれていた。
 正二は罪悪感を抱きつつも、道に胃の中身をぶちまけていた。
 体をささえきれずに、がらがらとゴミ箱に突っ込む。
 派手な音をたてて転がった正二を助け起こしながら、声をかけてきたのが、カズだった。
 無意識に男の方を見遣ると、店のロゴの入ったエプロンをつけている。
 そこでここが、喫茶「fade」の裏口にあたることに気がついた。
 エプロンを凝視したまま座りこんでいる正二に、カズは手を差し出した。
「立てる?」
 目の前に出された手につかまりながら正二は答えた。
「あぁ…大丈…」
 けれど、言葉は途中で飲みこまれた。
 それまでの吐き気が消えたわけではないのだ。
 崩れ落ちるようにして、正二はカズの腕の中に、吐くもののない胃の中身をあげた。
「わ、大丈夫じゃないじゃん」
 よろける正二の体をささえながら、カズがおかしそうに笑った。
 声に誘われるようにして、正二は初めてカズの顔を見た。
「…………」
 ぽかん、と口が開く。
「おじさん?」
 やけに整った顔立ちの少年が、不思議そうに首を傾げる。
 その瞳には、まだ心配そうな色が濃く残っている。
 きれいだな、とぼんやり考えながら、正二は何度もまばたきを繰り返す。
 だんだんカズの姿が捉えにくくなっていくのだ。
「ちょ、ちょっとっ」
 慌てたようなカズの声が追いかけてくる中、正二は意識を手放した。

 猫多市にある猫多学園は、そこそこのレベルを保った男子校である。
 中高一貫教育の高等部学舎、1年F組の窓際で二人の少年が、机をはさんでにらみあっていた。
「また?」
 細く整った眉を寄せて梅田和男(うめだ・かずお)は、目の前のクラスメートを見た。
 端正なくせに目つきだけは凶悪な顔で睨まれると、安井は及び腰になった。
「や、あの…ちょっと、さ。北岡の子が……」
 すべてを語る前に、安井の言葉は大げさな和男の溜息でさえぎられた。
 川をはさんで学園の向かいにある共学校の名前を聞いた途端、和男はすべてをさとった。
「あー、もういいよ。いっそオレがそこで雇ってもらうか?」
 投げやりな口調とは裏腹に、和男は楽しそうな笑みを浮かべた。
「う…そ、それは…」
 女好きの安井は、女にかける金が並ではない。
 親からの小遣いではとうてい足りず、バイトにせいを出しているというわけだ。
 そのバイトとデートが重なることもしょっちゅうで、中学から腐れ縁の和男にたよりっぱなしだ。
 だけど、それは収入源をたたれることである。
 安井はどうしてもバイトを取られるわけにはいかないのだ。
「嘘だよ。でも、マジであそこは居心地いいけどな」
 前髪をかきあげながらウインクまでよこす和男に、安井は涙目になりながら手をあわせた。
 今回は嘘で済んだけれども、本気になった和男は手がつけられない。
 この3年弱で、安井は嫌と言うほど思い知らされてきたのだ。
「fade…かぁ……そういえば……」
 机に頬杖をつきながら、和男が呟く。
「何?なんかいい出会いでも?きれいなOLさんとかいるよなー」
 やはり女のことしか考えていない安井に、グーでパンチを送る。
 大げさに痛がる安井を冷たい目で見下ろしながら、和男は握った手をゆっくり開く。
 まだ。お世辞にも大きいとは言えない手のひらに、握りこめてしまう手首。
 自分よりも遥かに年上なのに、腕の中で泣きながら震えていた体。
 自分の名前をかすれる吐息の合間に呼ぶ、優しい声。
 そして、切なげにつむがれる自分の知らない女の名前。
 和男は手のひらに力をこめる。
 血がとまりそうな程、きつく。
「オレは…」
 彼の名前も知らないのに。

 あれ以来、社内の噂はだんだん大人しくなっていった。
「課長、飯でも食っていきませんか?」
 就業のベルと同時に、隣室から同期入社でいまだ平社員の塚本が声をかける。
「あ……よせよ」
 同じ年の塚本に課長呼ばわりされるのは、少し居心地が悪い。
「ん?都合、悪いか?」
「いや…そうじゃなくて…」
 口ごもる正二に、塚本はおもしろうそうに背中を叩いた。
「ほら行くぞ、松枝!」
「……あぁ」
 ひきずられるようにして、正二は社を後にした。
 人ごみを器用に抜ける塚本の後を追う。
「どこに行くんだ」
 塚本は自信満々の足取りで駅コンコースを抜け、北口メインストリートを進んで行く。
 正二は落ちつかなげに、あたりを見回した。
 先日、散々失態をさらしてから近寄らないようにしていた。
 見咎めるものがいないとはいえ、居心地が悪い。
「喫茶店だよ。これが、静かで落ちつくんだって」
 言いながら塚本が指さした先に、まさにその『fade』が姿を現した。
 正二は何かの呪いに違いない、と塚本から見えないように溜息をはいた。
 その反面、淡い期待を抱いている自分がいた。
 再会するのが怖くて、こちらに足を向けることはなかったから。
 塚本が慣れた手つきで重い木製のドアを押す。
「何やってんだ?早く来いよ」
 正二は、ごくりと唾を飲みこんだ。
 この扉の向こうに『カズ』がいるのだ。
「あぁ…今、行く」
 扉をくぐると、そこは表とは別世界だった。
 控えめな音量でジャズが流れ、店内にはコーヒーの香りが充満している。
 塚本について、奥の席に通されると正二はそっとカウンターを盗み見た。
 ひげのマスターの他には、一人の女性が冷やと手拭の用意をしている。
(いない…?)
 ほっとしたのと、がっかりしたので正二は詰めていた息を吐き出した。
「松枝?」
「ん、あ?な、なんだ?」
 顔をあげると、塚本が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「まーだあの女のこと、忘れられねーのか?女は一人じゃないぜ?」
 タイミングよく差し出された手拭を受取ながら塚本が言う。
 更に言い募ろうとするのをさえぎって、正二は首を振った。
「彼女のことは…もう、いいんだ」
 そのまま黙りこんでしまった正二をじっとみていた塚本は、傍らで待っていてくれた店員に、二人分のオーダーをした。
 程なく並べられた食事は、簡単なものの割に、おいしかった。
 正二は食事の間中、無言だったことに罪悪感を抱きながら、顔を上げた。
「つかも…」
「スミマセンっ!」
 静かな店内に、少年の声が響いた。
 はっとしたように正二が顔を向けると、カズと同じ年頃の少年がエプロンをかけながら、マスターに頭を下げていた。
 人違い?
 落胆したような表情を浮かべた正二に、塚本が声をかけた。
「ここに知り合いでもいるのか?」
「知り合い…というか…」
 正二は口篭もる。
 知り合いと言うにはカズの事を知らないし、逆に知りすぎているとも、いう。
 あきらめきれずに見つめつづけていると、少年と目があった。
 いぶかしげな顔をして少年が冷やのポットを手に、テーブルに近づいてきた。
「お冷はいかがですか?」
 塚本はすでに空になったグラスを差し出し、正二は食い入るように少年を見つめた。
 少年は落ちつかないらしく、1歩さがって口を開く。
「あの…僕が…なにか?」
「いや…その…ここに……」
「ここに?」
「あ、だからその…君のほかに男の子の店員は…その…」
 少年は宙をにらんで、しばらく考えこんでいるようだった。
「あ!」
 少年が思い出したように、軽く手を叩く。
「梅田、でしょうか?」
「うめ…だ?…その、カズ……、と」
 呟くようにつむがれる正二の言葉に、少年は得心したようにうなずいた。
「正規のバイトではないんです。その、僕の代わりにたまに入ってもらっている臨時、なんです」
「そっか…」
 正二の少し沈んだ調子に、塚本が少年を手招きした。
 中腰になった少年に塚本が耳打ちする。
「はい、わかりました」
 にっこり笑うと一礼して少年は、テーブルから離れた。
 それにすら気がつかない風で、正二は目の前に置かれたカップを凝視していた。

 和男は猫多の町を疾走していた。
 部屋でごろごろしていたところに、携帯が鳴ったのだ。
 安井からの電話の第一声は「助けて」だった。
 何事かと姿勢を正してみれば、緊急でバイトを代わってくれということだった。
「ふざけるな」
 吐き捨てるように言うと、和男は回線を切った。
 そろそろ10時になる。
 電話にでないままでいると、メールの着信音が鳴った。
『松枝正二、っておじさん知ってる?おまえを探してるみたいだ』
 読み終わると同時に、和男は夜の町に飛び出した。
 片手に握りしめたままの携帯の画面を、覗きこみながら町を走る。
「まつ…えだ………しょうじ……」
 口の中で転がすように、名前を呼ぶ。
 10分間、走りつづけて和男はfadeの裏口に回った。
 従業員専用口をそっと開けて、店内にいるはずの安井を呼ぶ。
「おい、さっきのメールって…」
 息を切らしながら話す和男に、珍しいもののように安井が見た。
「すっげ…」
「は?」
「おまえが息切らしてんの、初めて見た」
 ちゃかすように言いながら、安井が店の奥を指差した。
「あの人なんだけど…知ってるか?」
 安井の影に隠れるようにしながら、和男が奥を覗きこむ。
 ぼんやりとカップを眺めている正二の姿を視界に納めると、和男は安井を押しのけた。
「こっ、こら…いてーって…」
 壁にぶちあてられた腕をさすりながら安井が文句を言う。
「もう行ってしまったよ」
 おだやかな声が降ってきて、安井はマスターを見た。
「僕って、友達思いですよねー」
「そうだね。彼には世話になってるしね」

「松枝さん」
 頭上からかけられた声に、正二は顔をあげた。
「……どうして?」
 泣きそうに顔をゆがめて、正二は和男と塚本を交互に見た。
 目が合ったのを見計らって、塚本にウインクされてカウンターを省みる。
 マスターと二人で手を振っている姿に正二は困ったように、和男を見た。
 和男は外気で冷たくなった手を正二の手に重ねた。
 周りが気になるらしい正二を引き寄せると、塚本に小さく頭を下げる。
「お借りします」
 手を引かれたままの不安定な格好で、であった路地へ連れて行かれる。
「君…は」
 正二はやっとのことで口を開いた。
 言いかけた言葉をふさぐように唇を重ねると、和男は逃げられないように正二を抱きしめた。
「もう…置いていかないでください」
 あの日。
 初めて夜を共にした日。
 和男は正二の名前もしらないまま、ぬくもりだけが残るベットに取り残された。
 あの時から、和男の時間は止まったままだ。
「あれは…一夜限りの、こと…だろう?」
 苦しげにつむぎ出される正二の言葉に和男は首を振る。
「嘘。そんなこと、思っていないでしょう?」
 和男の言葉に、正二はただ、首を横に振ることしかできない。
 正二の頬に唇が触れる。
「嘘だよ…なら、なんで泣いてるの?」
 和男のささやきに目を閉じる。
「カズ…」
 正二の手がゆっくりと和男の背中にまわる。
 抱き合ったまま和男が、小さく囁く。
「もっと呼んで、オレの名前」
「カズ」
「正二さん、ダイスキ…」

 後日談。
「ねーねー、正二さん。」
「ん?」
「これって運命だよねぇ」
 和男の青い発言に苦笑いを浮かべながら、正二は首を縦に降った。
「オレね、思ってたんだ」
「何を?」
「あなたの指を噛み千切って、目印にしておけばよかった…、って」
「…………」
「昼間の正二さんは、今と全然違うから」
 正二の背中に指をすべらせながら、和男がささやく。
 ぴくり、と眉を寄せてから正二は和男を見た。
「仕事中にこんなことはしないだろう?」
「してたら怒るよ」
 そして、二人は青い毛布にくるまって。

 何度も何度も、キスをした。

END