**クマさんの天使** 砂河永力
「草と夜空とクマさんと。」続編



 疾風は面倒臭いことが嫌いだ。
 桃は好きだが西瓜は好きではない。
「タネは一つで十分だろ」
 種無しブドウですら嫌いだ。理由は「小粒で面倒臭い」。そんな面倒臭がりの疾風にとって、緒方寛斗は単純ないい玩具である。
「なるほど、単純明快だ」
 疾風の横。ベンチに凭れて湯川が頷いた。その抑揚もない声に疾風の整った眉がぴくりと動く。
「なんでお前がここにいるんだよ」
 日曜と言えば彼女とデート。こんなグラウンドで野球の試合を見る暇などないはずだ。
「いや〜、クラスメイトの活躍する試合も見たいじゃない。おっ、緒方の打席じゃん」
 背番号七番、濃紺のユニフォーム。長い腕でバットを振るうと背番号の下の筋肉が隆起して見えた。
「ここんとこ四割打ってるってさ、彼氏。頑張ってるね〜。予選前に調子上げてたら言うことナシだったろうに」
 監督の脇のスコアを盗み見て、湯川がにやりと笑った。流石の疾風も返す言葉はない。

「オレの前で無様に負けるな」
 応援に来て欲しいと赤面しつつ言ったのは緒方だった。大きな背中を申し訳なく縮めて切り出したのだ。
 例の課外学習で緒方に助けられた後、疾風のなかでの緒方は大きく変わった。それは誰にでもすぐ見て取れるほどハッキリした変化なのに、当の緒方だけは気付いていない。
(もっと自信たっぷりに言えっての!)
「オレの勇姿を見てくれ!」くらいは言い切って欲しい。なのに、実際の緒方は遜って、汚くてむさ苦しいけれど…と語尾を濁すのだ。
 丁度、緒方寛斗という人間に興味を持ち始めたところだ。みんなに評判の野球部とやらを覗いて見たいと思っていたのだ。
 疾風は整った綺麗な顔を顰め、いかにも渋々といった様子で頷いた。勿論、素直でない疾風は条件を出すことも忘れない。
 負けるなと言われて負けない。
 実はすごく大変なことを、緒方は嬉々としてやり遂げている。疾風が見た五試合総てでホームランを打ち、一度などサイクルヒットまで決めてしまったのだ。

「陽射しが暑い」
 そう言う疾風を部員たちがこぞってベンチへ誘い、監督のすぐ横で冷えたスポーツドリンクまで差し出される。初めは苦い顔の監督も、疾風のお陰で部員の士気が高まり、連日の好成績にそれを黙認していた。
 打席の緒方は犠牲フライを高々と上げ、二塁にいた味方がホームベースを踏んだ。味方ベンチが一斉に沸く。
「さすが緒方だっ!」
 監督がぱしっと自分の膝を叩いた。
 賑やかなベンチの中、ただ一人釈然としないのは疾風だ。
「なにが良いんだ? バウンドせずに相手に取られるとアウトなんだろが」
「は? そりゃーアウトだよ。でもそのお陰で二塁から戻って来れたわけじゃん」
 湯川が言う。確かに犠牲フライはそう意味だ。けれど解っていても納得いかないのだ。
 疾風は戻って来た緒方を指で呼ぶ。ほいほい近付いた緒方は犬のような目で「よくやった」の一言を待っていた……。
「なんでホームランを打たないんだ」
 しかし待っていたのは御褒美の言葉ではなく、冷たいダメ出しの台詞だった。
「えーと……」
「お前があそこでホームランを打ってれば、アウトにもならずに二点入っただろう」
 そう言って恫喝する。
「あ、あのですね。あの場合はアレでいいんですよ…」
 たまらず口を出した先発投手。敬語の彼は同じ二年生だ。空かさず外野手の三年がフォローに入る。
「そ、そうですよ。相手のピッチャーはチェンジアップが得意で、スピードはあまりないんです。いくら緒方の肩がすごくても、球威がない球は……」
「だったらそんな球でも打てるようにすればいいんだ。もっと鍛えろ!」
 年上の主将の説明も遮って、疾風は言い切った。仁王立ちの疾風の前、中世の騎士のようにかしずく緒方は、うっとりと綺麗な疾風の顔を見つめていた。
「そうだな、疾風の言う通りだ。オレが未熟だった。スマン」
 監督の作戦も疾風の前には屑同然。緒方は疾風が言うこと総てを盲信しているのだ。
(コイツらどうにかしてくれ……)
 当の二人と湯川以外の誰もがそう思っていた。チーム内での緒方は無骨で真面目なはずで、こんな脂下がった顔はらしくない。緒方は疾風を天使のように扱っているのだ。
「おっ、横暴ですっ。先輩は素晴らしい働きをしたんですからっ」
 誰もが疾風のオーラに圧倒されている中、勇ましくも意義を唱えたのは一年のマネージャー、今泉だ。くりっとした大きな目とくるくるの天然パーマがお菓子の箱にある天使に似て見える。
 疾風は今泉をちらりと見ると、そのままぷいっと顔を背けた。いかにも聞く耳持たぬという姿勢に、今泉が憤慨する。
「ちょっと、先輩! 芹沢先輩は部外者なんですよ! 主将? ちょっと、緒方先輩!」
 話を振られた主将は「あ、守備に行かんと…」と逃げ出し、緒方は疾風に見入って話すら聞いていなかった。
「みんなぁ〜〜っ!」
 ああ忙しいと口々に言いながら、今泉の回りから人が消えて行く。誰もが疾風を擁護していることは明らかだった。
「あー、キャンキャン煩いな…。ほら、緒方。行かなくていいのか?」
 言われた緒方は慌ててプロテクターを装着し、審判に注意を受けながらもホームベースに戻って行った。
「きっつ〜。エンゼルちゃん真っ赤になって睨んでるぞ、怖ぇ〜〜」
 面白そうに目を爛々とさせて、湯川が肩を竦ませた。
「ボクは認めませんからね。このままだと野球部の士気にかかわるんです!」
 スコアをぎゅっと抱きしめ、今泉が吠えた。
「勝ってるじゃん。オレが見た試合はみーんな勝ってる。別にいいんじゃないの…」
 実は疾風はこの小さい天使が嫌いなのだ。
(こいつ、アイツに気があるのか?)
 そう思うことが何度とあった。
 ベンチに戻って来る度に真直ぐ疾風の方へ来る緒方を、わざわざ呼び止めてタオルを渡したり、マスクを受け取ろうとする。
(残念だったな、おチビちゃん。アイツはオレに夢中なんだ)
 なにかと視界に入られて、疾風も内心イライラしていたのだ。ここぞという機会があれば爪を立てるくらいに。
「今は負けてるじゃないですか。六回の裏で四対二です。猫多は負けてるんです!」
 頬をぷうっと膨らませて、「そうですよね?」と湯川と監督、他の部員にも同意を求めた。勢いに誰もが頷くと、「ほら、士気が乱れているからです」と言い放った。
(----ムカつく……)
 プチッと疾風の中でなにかが破れた。疾風は白い綺麗な手をすっと出すと、そのまま今泉の頬に宛てた。
「なっ、なんですかっ! ボッ、ボクは怖くないですよっ」
 そう言う今泉の頬を摘み、ギューッとねじり上げた。ギャ〜〜ッという悲鳴がグラウンド中に響き渡った。
 悲鳴にビビった湯川が、慌てて疾風の手を取り上げる。
「バッ、なにしてんだよ!」
「……別に。ちょっとこの小さいのがムカついただけ」
 それ以外のなんでもないと、疾風はグラウンドを見た。どっしりと座って速球を受ける緒方は一際大きく見える。
「痛いぃ〜。もうっ! 絶対に許せません! 今日負けたら、もう二度と来ないで下さい! 緒方先輩だって迷惑ですっ。本当の緒方先輩は寡黙で優しくて、力強くて…ストイックな野球人なんです!」
 ぜーはーと息も荒く、ヒリヒリする頬をすり続ける。今泉はそれだけ言うとスコアブックを抱いてベンチに座った。勿論、疾風とは一番離れた場所に。
 面白くないのは疾風も同じ。
 見に来てくれと言ったのは緒方なのだ。
「疾風が来ると力が沸くんだ」
 そう言って頭を掻いていたではないか。
  納得いかない…。
 言うなれば自分はボランティアで見に来てあげているのだ。善意でしたことを否定され、挙げ句に迷惑呼ばわりだ。
 疾風はその氷のような美貌の下で、怒りのマグマの熱い滾りを覚えた。しかも、
「あのチビちゃんは緒方のことが気に入ってるみたいね。随分と美化入ってるし」
 寡黙でストイック? 会って直ぐに人に覆いかかり、キスまで奪った野蛮人を、そう評価する人間もいたのだ。
 ピキピキと、疾風の顳かみが震える。
「あれ? もしかして焼きもちとか?」
 ふふふ、と湯川が突っ込む。親友のからかいに疾風は彼の膝を叩いて窘める。
「なんでオレがアイツのことで焼きもちをするんだ。可笑しいだろう」
(あんなクマなんて、側にいたいって煩いから許してやってるだけだっ)
 大体、焼きもちと言うことは、今泉に自分が嫉妬していることになる…そんなことは断じてあってはならないのだ。
 湯川の突っ込みと今泉の視線…。なんのことはないと試合を見ているが、心は曇ってゴロゴロと今にも発雷寸前だ。
 七回、八回と、どす黒い空気にベンチは覆われている。寄れば感電しそうな低気圧を背負い、疾風はは静かに座ったまま。
「腹痛いのか? なんかイヤなことでもあったのか?」
 味方の攻撃もろくに見ず、緒方は押し黙った疾風に付きっきり。それを見た今泉は、やれ水分補給だ、ウエットティッシューだのと間に入ろうと必死だ。
(イライラする……)
 リリーフの好投に攻め倦んだまま、とうとう迎えたのは九回の裏。
(チビの言いなりになって去るのか?)
 頼まれて来て、負けて帰る? 冗談じゃない。頭下げられて来たのは自分なのだ!
「頼んだぞ、緒方!」
 肩慣らしにバット二本をぶんぶんと回して、緒方が監督の声に頷く。ちらりと疾風を見て、うっすらと微笑んでみせた。
(そうだ。お前が負けるなんて許さない…)
 1アウトで走者一塁、三塁。監督が出したサインは粘って盗塁させて、ツーベースヒットで同点。最悪な場合でも一人は返そうというものだった。
 夕暮れのグラウンド。
 西陽が緒方の金属バットをキラリと照らす。大きな背中はゆっくり止まり、バットを持つ腕が滑らかに動いて、顔の横でぴたりと止まった。
「これで負けたら芹沢先輩のせいですから」
 いつの間にか直ぐ側まで来ていた今泉が、意地悪く耳もとで言う。
 ブチリと疾風の堪忍袋の緒が切れた。
 すっくと立ち上がり、みんなの視線を一身に集めると、そのまますたたすたとバッターボックスの緒方へと歩いて行く。
 試合中である。
 審判がマスクを上げて、何ごとかと訝し気に疾風を見た。
 神々しいまでに美しい少年が、うっすらと微笑みながら近付く。その、何者も寄せつけない張り詰めた雰囲気に、審判はぼうっと凝視してしまった。
相手チーム、そのギャラリー、総ての視線が疾風に集まる。
「疾風……」
 みんなが固唾を飲んで見守る中、緒方は「夕陽に染まる疾風も綺麗だ」と頬を緩める。
「御褒美が欲しいか?」
 疾風は前置きもなくそう言った。
 突拍子もない言葉にえっと緒方が聞き返す。
「御褒美だ。ここでお前がホームラン打って逆転勝ちをしたら、お前の言うことを一つだけ聞いてやる」
 相手の投手は地域でも名の知れたストッパー。ここ何年かの打率は五分五分。勝負に出て勝てないことはない。
「欲しい! もっ、もしもオレがホームラン打ったら……キッ、キスしていいかっ?」
 いつにない疾風の行動に、緒方の頭は舞い上がったまま。「恋人になりたい」だの「セックスしたい」と言えば…。後で後悔することになる緒方寛人、爪の甘い男である。
「----いいだろう。じゃ、とっとと打て」
 言うだけ言うと、くるりと踵を返し、疾風は再びベンチに戻る。どっかりと座り、今泉を見ながら「ふん」と鼻で笑ってやった。

 その瞬間、味方は誰も見ていなかった。
 カキンッと高らかに響いた快音。気がつけば打球は高く遠く延び、グラウンドの終わりのフェンスを超える大ホームラン。
「うっ、嘘ぉ〜〜……」
 今泉の腕からスコアブックが滑り落ちた。
 ほら見ろと、あんぐりと口を開いた湯川の横で婉然と微笑んでみせる。
 グラウンドでは逆転のサヨナラ2ランを決めた緒方が、ものすごい勢いでホームベースに走り込んでいた。
「疾風っ!」
 しかし、出迎えたチームメイトと監督そっちのけで、緒方は疾風の前に跪く。
「打ったぞっ。やっぱりオレの勝利の女神…いや、天使だよ!」 
がしっと疾風の細腰に手を回し、顔を上げて労いの言葉を待った。
「良くやった。上出来だよ」
 いつもなら「くっ付くな」と吠える疾風が、にこにこしながら頭を撫でてくれる。緒方は尻尾があればはち切れんばかりの上機嫌で、そのまま甘えた口調でねだった。
「約束の御褒美くれっ」
 頑張った御褒美。その甘美な響きに、緒方は味わう前から天に昇る気持ちだ。
「解った。好きにしろ」
 ええっと周囲が息を飲む。緒方が疾風の頬を撫で、そのまま唇を奪ったのだ。
「おっ、緒方先輩っ!」
 視界の端で今泉が驚愕の顔。疾風はキスを受けながら唇の端で笑った。
(解ったか! こいつが好きなのはオレなんだ。お前なんてお呼びじゃない)
 今泉の気持ちは恋愛にはまだ早い憧憬だったかも知れない。けれど、こうして早めに芽は摘むに越したことはないのだ。
(全く、このクマ野郎が……)
 疾風の抵抗がないのを幸いと、緒方はこっそりと舌を差し込む。されるがままの疾風の舌を啄み、そのまま絡めてやった。
「んっ…んんっ……」
 舌の付け根をくすぐられて、疾風の身体に電流が走った。
 おお〜っと、濃厚なディープキスに球児たちが唾を飲む。うっすら開けた目の前に、彼等の顔を見て、咄嗟に疾風は緒方の膝頭を蹴り上げた。
「ぐあぁっ!」
 そのまま無様に倒れた緒方。けれど、その顔はだらしなく蕩けたままだ。
「天使? 冗談だろ。アイツは正真正銘の悪魔だよ……」
 湯川は心の中で十字を切る。
 美しい悪魔に見入られたクラスメイトの無事と幸せを祈って……。
 
                     しまい